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 般若心経 完全マスター 
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般若心経 解説No.1サイト◆般若宗HP
へようこそ。
般若宗は、仏教の中の新しい宗派です。(SINCE 2003/12/12)
般若宗は、
「般若心経の意味」、究極真理たる「空の意味」について、広く皆様に伝授し・普及させる目的 で設立されました。
≪ 般若心経と言えば般若宗 ≫ ≪ 叡智(英知)のヨーガと言えば般若宗 ≫ と覚えて下さい。
「空と般若心経」について、一歩一歩段階的に、
それも <無料で> 学習できます。
では、当ホームページで、心ゆくまでゆっくりと、深遠霊妙なる仏教教理を学習して下さい。 

★ 『般若』 の意味
★サンスクリット語版般若心経 はこちら  

                    ★仏教の核心である『因縁起』の深い意味はこちら

■般若心経の各「語義」を詳しく解説しています■
  (どこよりも詳しく! ほんまもんの「本覚思想」を伝授します。
   そして、般若心経の奥義 「一大曼陀羅観」をも伝授します。)


(0)般若心経の全体像(大意)
(1)般若心経のサンスクリット語版
   のタイトルについて

(2)般若  の意味
(3)波羅蜜多 の意味
(4)心経 の「心」  の意味
(5)観自在菩薩  の意味
(6)行 深般若波羅蜜多 時 の意味
(7)照見  の意味
(8)五蘊  の意味
(9)皆空  の意味
(10)度一切苦厄 の意味

(11)イハ(梵語)  の意味
(12)舎利子  の意味
(13)  の意味
(14)  の意味
(15)  の意味
(16)  の意味
  
★↑「諸行無常」の意味(こちら
(17)  の意味
(18)亦復如是  の意味

(19)  の意味
(20)諸法  の意味
(21)空相  の意味
(22)不生不滅  の意味
(23)不垢不浄  の意味
(24)不増不減  の意味

(25)是故空中  の意味
(26)無色 無受想行識  の意味
(27)無眼耳鼻舌身意   の意味
(28)無色声香味触法  の意味
(29)無眼界 乃至 無意識界  の意味
(30)無無明 亦無無明尽  
(十二因縁)の意味
(31)乃至無老死 亦無老死尽
(十二因縁)  の意味
    
★仏教の「因縁(起)」の深い意味別の箇所(ここ)です。
(32)無苦集滅道(四諦)   の意味
(33)無智亦無得 の意味
  〜〜(注意)ここで一旦、文章は切れます!〜〜
(34)以無所得故  の意味
(35)菩提薩捶の梵語原文  の意味
(36)依般若波羅蜜故  の意味
(37)心無●(ケイ)礙  の意味
(38)無●(ケイ)礙故  の意味
(39)無有恐怖 遠離〔一切〕顛倒夢想  の意味
(40)究竟涅槃  の意味
(41)三世諸仏  の意味
(42)得阿耨多羅三貘三菩提  の意味

(43)故知  の意味
(44)般若波羅蜜多 是大神咒  の意味
(45)是大明咒  是無上咒  是無等等咒 の意味
(46)能除一切苦  の意味
(47)真実不虚故  の意味
(48)説般若波羅蜜多咒  の意味
(49)即説咒曰   の意味
(50)掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提僧莎訶
   の意味
(51)梵語原文の締めくくりの言葉 の意味

  ★ローマナイズ・サンスクリット語版般若心経を読みながら原文の訳を考えたい人は「こちら」です。
  ★般若心経の<真髄和訳>を読誦しながら瞑想して、実際に煩悩を鎮静させたい方は「こちら」です。

★遂に刊行開始! 『龍樹論理学』 第一章 こちらを御覧下さい。

★ 「空」には、次の
「2つの意味」があります−−−
(1)自性有る存在(=虚空の如き絶対精神としての実在的主体性) 
(2)無自性という性質(実在的主体性が無い、全面他依存的受動性) 
    般若宗は「空」をこの「2義の掛詞(カケコトバ)」として理解します。
  (2)無自性の意味の場合の和訳は、こちらを御覧下さい。
  (1)の「実在的主体性(大日)」の意味の和訳は、こちらを御覧下さい。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
★★ 『無自性』 の意味がよくわからない人は、『無自性の三要件 及び 無自性存在の三無力』 を御覧下さい。  

★ 上記の瞑想法については、詳しくは、こちらを御覧下さい。


<↓ 般若心経の瞑想力養成和訳↓ >
〜効果は超・超強力です!〜

   【「自性」という仏教専門用語を色々な角度からの「内容意訳」を試みています】

  内容意訳の履歴です

  ●「自性」 ⇒ 独立主宰者性
  ●「自性」 ⇒ 完全独立・無依存主宰者性
  ●「自性」 ⇒ 完全自由・独立無依存・オーナー性
  ●「自性」 ⇒ 完全自主独立・活動本体性
  ●「自性」 ⇒ 真主体性
  ●「自性」 ⇒ 独立不滅の我性
  ●「自性」 ⇒ 常恒不滅の活動主宰者性
  ●「自性」 ⇒ 恣意的な選択活動自由性
  ●「自性」 ⇒ 恣意的選択活動自由性がない受動的なもの 
  ●「自性」 ⇒ 実在的主体性 (←最新の内容意訳)

   こういう意味の「自性が無いこと」が、「無自性」ということです。
★ 「自性が無い=無自性」という専門用語を日常語レベルに「内容意訳」します。
   そうした「内容意訳」を使って 「般若ヨーガ」を実践してみましょう。
  
  ★★★【般若心経・瞑想和訳】★★★

 「存在本源の光輝」を遍(あまね)く観照することを得(え)、「相対/絶対」両界を自由自在に観想する、(という、こうした偉大なる)「大悟」(会得)のための発心(ほっしん)堅固な勇者(であるところの)、
<観自在菩薩>は、(まこと)深甚霊妙にして、「完璧なる太極叡智」(との結合ヨガであるところの)帰入行を行(ぎょう)じている時、
(まさに、その時である)
(他でもない「自分自身の体」を!)
「五要素の集合体(に過ぎない!)」と看破し(た上)、
そのいずれにも、(それら五要素を単体・単独で取り出して理性で分析すると)まさ(正)に(それら一つ一つには)
「実在的主体性など(全く)無い、受動的なものである!(=無自性という性質がある!)」
と見極めた(のである)。
     
 <上記は、あくまでも、「梵語原文」に即して、 「空=無自性」という「一義に限定」した和訳です。
しかし、玄奘三蔵法師による中国語への翻訳文のニュアンスには、上記の「空」の意味のみならず、もう一つの意味、以下の三段階に進化する空観の「第二段」(自性)の意味(すなわち、根源仏・根源神)を含めた形で、次の「度一切苦厄」に続くと読むことになります。なぜなら、上記の一義だけでは、「度一切苦厄」にはならないからです。
つまり、身体の五要素すべてが、「根源活動仏の一変化相である」と悟るレベルのサマディーに達して初めて、「度一切苦厄」となります。>

 
〔(そうして)一切の苦厄を超越した。〕
〔⇒純粋神聖・大歓喜体験〕     
            −−−(以下は「観自在菩薩」の説法)
 
 シャ−リプトラよ。ここでは、
  −(以下、
梵語原本に書いてある ≪三段階に進化する空観≫ です)
●●第一段●● 
 (個我を形作っている)物質(それ自体)は
「実在的主体性など無い受動的な存在」である。 「(それ自体に)実在的主体性など無い受動的な存在」 が実に(個我を形作っている)物質なのである。  (=諸法空相を「色」について述べたもの)
●●第二段●●
(そしてまた) (個我を形作っている)物質は「空相なる究極本仏の相対界(への)投射相」と異なるものではない。 「空相なる究極本仏の相対界(への)投射相」と(何ら)異ならないものが(個我を形作っている)物質なのである。  
(=諸法実相を「色」について述べたもの)
●●第三段●●
(そしてまた) (個我を形作っている)物質は、「(それ自体)実在的主体性が無い受動的なもの」 でありながら同時に 「究極本仏の絶対界無相法身(ホッシン)(の一変化ヘンゲ相)」でもある。
 「(それ自体)実在的主体性が無い受動的なもの」でありながら同時に「究極本仏の絶対界無相法身(の一変化ヘンゲ相)」でもあるものが、(個我を形作っている)物質なのである。
  
(=相反する「諸法空相/諸法実相」両者を止揚した統一ヴィジョンを述べたもの)
  −−(以上で、≪三段階に進化する空観≫ 終了)

 感官による印象の感受(の場合)も、観念思考力(の場合)も、(生体的・意欲的)造成力(の場合)も、個体意識(の場合)も、全く同じ(事)である。

 シャ−リプトラよ。ここでは、
 (相対界の)総ての「存在・物事・理法」(=諸法)は、「(それら自体、単体で取り出して分析すると)実在的主体性が(全く)無い受動的なもの、という相」をしている。
(即スナワチ・ち−−−)
「発生すること」(という動的現象それ自体を単体で取り出して分析すると)それ自体に
実在的主体性がある故に「そうなる」わけではない(受動的なものである)し、
「消滅すること」(という動的現象それ自体を単体で取り出して分析すると)それ自体に
実在的主体性がある故に「そうなる」わけではない(受動的なものである)。
「汚(きたな)くなること」(という動的現象それ自体を単体で取り出して分析すると)それ自体にも
実在的主体性がある故に「そうなる」わけではない(受動的なものである)し、
「清潔(きれい)になること」(という動的現象それ自体を単体で取り出して分析すると)それ自体に
実在的主体性がある故に「そうなる」わけでもない(受動的なものである)。
「増加すること」(という動的現象それ自体を単体で取り出して分析すると)それ自体に
実在的主体性がある故に「そうなる」わけではない(受動的なものである)し、
「減少すること」(という動的現象それ自体を取り出して分析すると)それ自体)に実在的主体性がある故に「そうなる」わけでもない(受動的なものである)、(という相をしている)。

  (=上記の六つの動的現象を分析すると、六変化すべて、「自分から望んで自力でそのような変化を選択してしいるわけではない」、という当たり前の分析を述べたもの、でも内容は深遠です)

 シャ−リプトラよ。この故に、
 「究極本仏の、相対界投射相」においては−−−
 (個我を形作っている)物質(それ自体)には実在的主体性は無い受動的なものであるし、感官による印象の感受(それ自体)にも
実在的主体性は無い受動的なものであるし、観念思考力(それ自体)にも実在的主体性は無い受動的なものであるし、(生体的・意欲的)造成力(それ自体)にも実在的主体性は無い受動的なものであるし、個体意識(それ自体)にも実在的主体性は無い受動的なものである。(=五蘊無自性)
 視覚器官にも、聴覚器官にも、嗅覚器官にも、味覚器官にも、触覚器官にも、意識器官にも、(それら自体には)実在的主体性全く無い受動的なものである。(=六根無自性)
 可視的形象にも、音響にも、香気・臭気物質にも、有味物質にも、感触有るものにも、「(相対界の)存在や物事や理法」にも、(それら自体には)実在的主体性は全く無い受動的なものである。(=六境無自性)
 視覚領域(それ自体)にも実在的主体性は全く無い受動的なものであるし、そこから個体意識の領域に至るまで、(六識界総て)(それら自体には)実在的主体性は全く無い受動的なものである。(=六識界無自性)
 聡明博識(それ自体)にも実在的主体性は全く無い受動的なものであるし、暗愚無知(それ自体)にも実在的主体性は全く無い受動的なものである。
(よって)聡明博識は尽きないし、暗愚無知も尽きない。(また、暗愚無知から順次)老いと死に至るまで、(十二因縁の何れにも)(それら自体には) 実在的主体性は全く無い受動的なものである。(よって)老いと死に至るまで(十二因縁の何れも)尽きることがない。(=十二因縁無自性)
 「人生の業苦」にも「悪業累積現象」にも「業苦の止滅」にも「業累解脱の諸方法」にも、(それら自体に) 実在的主体性は全く無い受動的なものである。(=四諦無自性)
 「個人的に経験する働き」(それ自体)にも実在的主体性は全く無い受動的なものであるし、(よって)「経験知の個人的獲得」(それ自体)にも実在的主体性は全く無い受動的なものである。

 それ故に、「(個としての)獲得(一切)無し」(との一事)を以て、「悟りへの発心堅固な勇者」たる者、「完璧なる太極叡智」に依拠して、「覆うもの無き心」に住むのである。
 心を覆うもの、絶無となるが故に、(物事に)恐怖することも無く、転倒した謬見(一切)を超脱して、遂に涅槃に入定するのである。
 (また、過去・現在・未来の)三世の何処(どこ)にでも御座(おわ)します諸々の仏陀たちも皆、「完璧なる太極叡智」に依拠して(いるが故に)、「無上の真正・無欠・覚醒境」という正覚(さとり)を円(まど)かに現前させているのである。
 故に、(人は)知るべきである−−−「完璧なる太極叡智」の偉大な真言を。偉大な明智から出た真言を。無上の真言を。無比なる真言を。
 総ての苦しみを鎮める(ことができる)、空虚に非(あら)ざるが故に真実の、「完璧なる太極叡智」に関して説かれた真言を。
 それは即ち−−−
    
 求法   弘法  貫徹ぐ法    貫徹全ぐ法(時)     神覚(本覚)あれ 
 guho  guho kantetsuguho kantetsuzenguho(ji) sinkakuare 
            
  ここに、「完璧なる太極叡智」の「心髄」(についてのお経)を終える。
 
(下との掛詞)
  ここに、「完璧なる太極叡智」たる「心(=唯心法界)」(についてのお経)を終える。

≪注意≫−−−上記の瞑想力養成和訳では「無自性」について「恣意的な選択活動自由性は無い」という和訳を当てましたが、これは入門篇における 
『あくまでも仮設的な用語』 に過ぎません。この内容が理解できましたら、これを手がかりにして、更に深い意味へと入って行く必要が有ります。
 そのためには、『無自性の三要件 及び 無自性存在の三無力』 についてちゃんと理解することが必要不可欠です。   

心経マスターバイブル 前篇 第一章 第四節 <般若心経の全体像>

(前−1−6)
 
前項で見た「本覚思想」は、インドのウパニシャッド哲学の不二一元論と軌を同じくする、同流の思想と言えます。
 インドの
アドワイタ(不二一元)哲学では、
       ●「不二の絶対界」の現れ(=顕現物)が「二元的な相対界」であると見ます。
ですから、逆に、
       ●「相対界」は、「絶対界」から発生した「顕現物=マ−ヤ−(幻影)」だと見ます。
 
我々の住む「相対的二元・物質世界」を 「幻影(マ−ヤ−)」 と見て、だからこそ、
  「それらには実体がない、片時の仮の物(虚妄)に過ぎない、無常なり」 と見ます(=無常観)。
 しかし、同時に、「実体がない・幻影・無常なり」 とは言いながらも、
 深く洞察すれば、それらは実は尊貴なる「不二の絶対界の現れ」であると、
                  このように深く実相を観想します。
               この
両面性こそが最高に重大なポイントです!

 
        ★相対界の「この両面性」を見極める大局観を持てるかどうか!
          〜〜ここから『諸行無常』の「本当の意味」が流出します!〜〜
 < 『諸行無常の意味(真義)』については、 「語義解析16.行(サンスカーラ)」を御覧下さい。> 
 
 −−−これこそが、
般若心経が語っている世界観であり、『般若心経の全体像』です!
 


般若宗の教義のどこが革命的か?⇒こちら

般若宗の5大特 (Pleaseクリック)

≪般若宗の11の特徴≫(Pleaseクリック)



■■■1分間で直観する「色即是空」の意味、超入門講座■■■
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「相応部経典 無常」にある釈尊仏陀の名言を最初に一つ。

「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常であるから苦である。
苦であるから無我である。無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、またわが本体でもない・・・」
スッタニパータには、「過ぎ去るものは虚妄なるものである」
という言葉もあります。

これで分かる通り、肉体としての「色」を、貴方自身の所有
と思い込んでいるとしたら、それは真理認識とは違います。
貴方自身がその肉体のオーナー(所有者)である、とか
貴方自身がその肉体の「主宰者」である、とか
このように思い込むことを
仏教では
ヴィパルヤーサーティ(転倒した見方)
と呼びます。

ここで、イエズス・キリストの名言を一つ。
「神のものは神に返しなさい。」

「肉体」の各部分としての「ルーパ(色)=物質」それ自体は、
その物質のオーナー(所有者)
ではありません。
「色」自体単独で見ると「オーナー欠如状態」なのです。
つまり、
「肉体」自体は、命令を受けて動く 「道具」に過ぎないので
「から(空)」の存在です。
物質それ自体には、オーナー(所有者・意志者)としての
「我(アートマン)=主宰者」
が不在(無我)

なのです。

各存在物を試験管の中に入れて分析してみて、
★★「その存在物の中に主宰者(そのオーナー)不在であれば」★★
その存在物には「自性がない」
と、大乗仏教では称します!

詳しい解説はこの下を御覧下さい。

 人間は5要素が単に組合わさってできている
だからこれを「空」という、と「一面的に」解説しているだけ
そういう寺院や僧侶を信用すべきでは
ありません。
彼らは相対界の「両面性」、もっと言えば
梵語原文にある『三段階に進化(深化)する空観』
をちゃんと解説できないまま空を説いている
そういう浅墓な僧侶だからです。
彼らは深い事柄が何もわかっていないまま、
したり顔で法を説き、
密教的・般若宗的・アドワイタ哲学的な一大曼陀羅観を
批判しているだけなのです。
 

   ★★★3分間で直観する「我見」の意味、仏教奥義・超入門講座★★★
          メルマガ第6号(クリック)

  ★注意★
   無神論の方は、残念ながら、般若心経を真に理解することは不可能です。
   何故なら、
「神がそれをお許しにならない」からです。ですから、
    無神論の方々は、まず「超越神の存在に、
回心して目覚める」ステップを
    経るようにして下さい。
     
当サイトは、そのあとで御覧下さい。
         
  ●無神論者が仏教を説くと、次の2つの特徴が出ます。
   
(1)その人の「瞑想力」は、可哀相なほど微弱。
   (2)口先だけの机上の空論、即ち「戯論」という無駄・無益な論述
     に終始する。
 
 
  (理由)
(1)真の瞑想は神を瞑想するものなので、
           無神論だと正しい瞑想は当然不可能! 
       
(2)相対する正反対の2対、認識の相対性を超脱した「不二」を、
          無神論のまま想定すると、
         その「不二」自体が仮構・虚構つまり「戯論」になってしまう矛盾
        に陥ることが不可避となり、畢竟(ひっきょう)、
        「言行不一致の口先人間」として
「空」を論じるだけの人間
        になってしまう。
 
  それゆえ、仏陀(釈尊)は信仰心のない無神論者を相手にすることなく・・・

<叡智のヨーガの技法> を3分間で説明します

★ 叡智のヨーガは、「これではない、これでもない」と否定して、目的物以外のものを切り捨てて行く 瞑想技法です。
  では、何をどうやって 「これでもない」 と否定して行くのでしょうか?


■■■<超お勧め>メルマガ第四号『Who am I? の真義(初級実践篇)■■■(クリック)
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 〜〜〜〜【 3分間でわかる 叡智のヨーガ 入門講座 】〜〜〜〜〜〜〜

■ 叡智のヨーガを実際に実行したい人に、一つの課題を与えましょう。

   ≪それについての「活動の本体」を見極めよ≫ または、
   <それについて「主宰者性」があるかないかを見極めよ> または
   <対象とする存在物それ自体に、恣意的な選択活動自由性、そのような、自己の選択と意思で自由に活動する性質があるかないか、見極めよ。>
  と。

   これが叡智のヨーガ行者に与えられる
   「たった一つの修行課題」 です。
   この 「たった一つの課題」 を見事に見極め切った人は、
   全人類から尊敬される「悟った聖者」に成れます。
   人間を卒業し、神人、即身成仏者となります。
     えっ、そんなに簡単なの?  と思われる方へ−−−
   いえいえ、この課題は単純ですが、その実践は、
   そんなに容易ではないのです。だからこそ、地道な修行が必要ですし、
   極めて精妙な行法なので、霊的にハイ・レベルの人以外、上手に実践
   することはできない、と言えます。

(霊的にハイ・レベルではない人のためには、「観音様信仰」という礼拝法が有りますから、安心して下さい。「観音経」など参照して下さい。また、阿弥陀仏信仰でも結構です。「煩悩熾烈な末法の凡夫には念仏行」と昔から言われている通り、念仏修行は、煩悩を鎮める、最も手軽で効果的な行法です。) 

■ 色々なものを観察して、「活動しているもの」を凝視します。そして−−
     ≪ これは 「活動の本体」(独立の主宰者) であろうか? ≫
      <これには、「恣意的な選択活動自由性」があるだろうか?>
 
  という疑問を抱き、あなたの洞察力を全開にします。
   
■ 「風車(かざぐるま)」を例に取りましょう。
   風車の羽はくるくる回って活動しています。その羽を見つめて、
   
    これは、「活動の本体」だろうか?
    これには、「恣意的な選択活動自由性が本来的に備わっていて、それ故に回転しているのであろうか?

   
   と、思索します。深く思索します。「活動エネルギー」の「源泉分析」を行う、
   と言っても良いでしょう。

  風車の羽をまわしている原因は、風。
  その風を起こしている原因は、大気の熱の変化。
  太陽の光熱、地球の自転、などなど。

  このような思索の仕方を仏教では 「その縁起を思惟する」 
  と言います。「縁起」とは「因縁起」の略語です。「因縁によって生起すること」を意味します。

  (注意) 「活動性に関する縁起」(それが生起する縁) について
       今、考えました。 
       しかし、インド仏教哲学では、もっと突っ込んで、
       「存在の生起(発生)に関する縁起」
       を考えて、それを瞑想して行きます。

 

仏教の核心である『自性』概念を3分間で説明します

★ 仏教の 「自性/無自性」の概念は、とてもむずかしいように思われています。確かに、自性概念は「全宗教の奥義」 を含んだ概念と言えるので、その意味では難しいのですが、分かってしまえば簡単です。

    最初にズバリ−−−<「自性」とは、孤立無縁・無依存の、完全独立した「主宰者性」のことである>−−−(他に依存しない意思決定権をもった「我」という性質のこと)

   このように頭において、以下の説明を読んで下さい。

   「自性」概念の中に、世界宗教をリードすることさえ可能な、「仏教の瞑想法の偉大さ」 があります。
   従来は、一般に、
        「自性が有る」とは−−「実体があること」
        「自性が無いこと(無自性)」とは−−「実体がないこと」

    という言い換えがされて来ましたが、この言い換えは「大雑把すぎて意味がない」と言えます。
    普通の人は、「実体の有る/無し」ってどういうことか、が知りたいのに・・・・と思うことでしょう。
      
     Q.「実体が無い」 ってどういうことですか?
    
     A.「(孤立無縁・無依存の)独立した活動主宰者的性質」 が無い、ということです。
           (詳しくは、このページの下の 「入門版の真髄和訳」 を御覧下さい)

〜〜〜(予備校のスーパー講師のような) 本当にわかるからこそできる〜〜〜 
      【 3分間で わかる 「自性」概念 入門講座 】

■ 「自性」という言葉を 漢訳漢字にとらわれて、
    <<それ自体の性質>>−− と「思い込む」と大変な事です! 
  あなたは 「一生出られない迷路の中に入って無明の中で惑う」こと
  になってしまいます。
  (「机上の空論」を並べ立てるだけの「空理・空論」の人に堕してしまいます。)

(注意)「自性」とは、「それ自体の性質」という意味ではありません!
     生半可の知識のゆえに大誤解に陥っている人があなたではありませんか?
  確かに、文献によっては 「自性=それ自体の性質」 と書かれている かもしれません。しかし、それは古い時代のものです。つまり・・・・
 部派仏教の時代には、「自性=それ自体の性質」と解釈して、何にでもその一つ一つに「自性がある」と考えた勢力が多数派でした。
(五位七十五法に自性を認める見解など)。

しかし、龍樹(ナーガルジュナ)の登場により、事態は一変します。
  ほとんどすべてに、「自性がない」という主張が正しいということが主張され、これが仏教の真髄
を語る論述だと広く認証されるようになります。
 この両主張の「差」は何でしょうか?

 答えは簡単です。−−−龍樹の登場により、「自性」概念が、部派仏教時代の意味から脱皮して、一気にレベル・アップ・深化した「自性」概念(内容)に「変化した」 のです!

 こうした
 ★「自性」概念の進化(深化)と変化(バージョン・アップ) という事実について
   しっかり認識することこそが、仏教を理解する重要ポイントだ、
 
ということになります。

  ゆえに、「自性」に関する正しい理解は以下の通りです。−−−

   ≪ 「自」性  =  「我」 性 ≫ 
              ※(我=アートマン ゆえに、我性=アートマン性
      
  そして、「我」 と言える特徴として、「意思決定権」があります。
 なぜなら、自分で意思決定できない主体は「我」があるとはいえませんから。
  これをもう少し突っ込んで考察すると、
   「我」があるといえるには、「他から左右されない独立した意思決定権」をもった、すなわち「主宰者」といえる性質が必要だ、ということになります。
  そこで−−−−、
 
   ≪ 「自」性  =  独立した「主宰者」性 = 活動「本体」性 ≫

  意思決定権をもって各種の意思決定を行う、「活動の本体」こそが、「独立した主宰者的性質」がある、と言えます。

 つまり−−− 
  <我の性質 ⇒ 我性 (アートマン性) ⇒ 自性(スヴァバーヴァ)> 

  <自性(スヴァバーヴァ) ⇒ 独立した主宰者性 >

  だと理解しましょう。  これで、自性概念、恐れるに足りずです。 

  「独立した主宰者性」「意思決定をする活動の本体」は同じものを指しています。

  ★★「主宰者性」は「独立」「無依存」であることが必要です。★★
なぜなら、他に依存して、自分独自の意思決定ができない状態ならば、「主宰者的性質がある」とは全然言えなくなってしまうからです。それは「従属・依存した状態」です。
  つまり、

  「主宰者的性質」(スヴァバーヴァ)とは、依存的でない孤立無縁の独立性 と不可分である
     ということになります。

 「依存的」といっても色々な形があるでしょうが、仏教の縁起思想は、主に、発生面で語られるものです。すなわち、「他に依存して、発生(生起)するもの」は、発生に関して、独立した主宰者性がありません。

 ということで−−−、

 <「独立した主宰者性」(スヴァバーヴァ)は、仏教の「縁起」概念の反対概念、という両者の位置関係にある>−−ということが自動的にわかります。(←これは超重要な認識ポイントです!)


■ 仏教は「無我の思想」と言います。これは、
   
   ≪ 無我の思想  =  「我性の否定」 の思想 ≫ 
 
  となります。
   で、「我性の否定」って、どういうこと?? 
  簡単に言えば
 
    <「独立した主宰者的性質」の否定> の思想  

  ということです。これが真に分かれば、仏教が分かった、
  ということになります。 

    ★ 自性概念 に関する更に深い、段階的な解説はこちらで御覧下さい。

■ 「自性 = 恣意的な選択活動自由性」 として、簡単に説明しましょう。
【困った笑い話の譬え】
 あなたの両足が、ある朝起きたら、「恣意的な選択活動自由性を備えていた」としたらどうなるでしょうか?
 あなたの両足が、「活動の本体」として恣意的な選択活動自由性を獲得してしまったら??
 あなたの両足は、あなたの意思を無視して、好き勝手に自分の行きたい所に歩いて行ってしまうでしょう。上半身であるあなたは、「あれれ〜、私の行きたいところはそっちじゃないのに〜〜」 という状況が起こってしまいます。
 これは喜劇ですね。 これが、あなたの両足に≪恣意的な選択活動自由性≫ があるケースです。

【笑えないシリアスな譬え】
 あなたの身体の中のある細胞が、受動態的な受け身の立場がイヤになって、「自主独立」を宣言して、その細胞だけが勝手な振る舞いをし始めたとします。勝手に増殖を始めてしまうのです。あなたは一体どうなるでしょうか? このような造反行為・自主独立的に振る舞う細胞を、医学的には、『癌(ガン)細胞』と言います。この造反が進むと、あなたの身体の生命は危険にさらされます。身体システムの崩壊を招きます。これは悲劇ですね。これが、あなたの体細胞の一部が、≪恣意的な選択活動自由性≫(但し、癌細胞のケースは、正確には、細胞自体「恣意的」活動、とは言えませんが・・)、まあ、全体の生体的統制から反逆的に勝手の増殖し始めた時のケースです。
 
★ 多くの人は−−
≪自分の身体(からだ)は自分の物・自分の自由≫−−−と思っているでしょう。
だからこそ、あなたは、自分の身体運営の主宰者・オーナーとして好き勝手に自分の肉体を使用しているのです。
   ⇒これは、「自分に自性が有る」、と思い込んでいる、ということです。
     これが仏教で言うところの−−−根本の『転倒(した見方)』−−−です。)

  (たとえば、自殺する人は、「自分の体の主宰者」として、自分の身体に対する自由な「処分権限」も持っているから、好き勝手に自殺、すなわち自己身体の廃棄もできる、と考えるのが通常です。。。)


★ 「空」は≪2つの意味≫の掛け詞です。
  何故なら、「自性有る存在」をもゼロ(0)で表し、「自性無き存在」もゼロ(0)で表すからです。
  つまり、「空」とは、「自性有る存在」と「無自性存在」の掛け詞なのです。
     詳細は 『般若心経完全マスター・バイブル』後篇第七章 【ステップ1】空の三義を知る  を御覧下さい。

★ 従って、般若心経には ≪二つの顔≫ が有ります。
     一つは    無自性ステージの顔
     もう一つは  自性ステージの顔    です。
  
  般若心経は 『エヴェレストの山頂部分だけを切り取った経典』  と評されることがありますが、
  もう少し正確に言うと、こうなります。
 すなわち、空海は『秘密曼陀羅十住心論』で、人間の精神レベルを10段階のステージに分類しましたが

  −−−般若心経とは、第九住心、第十住心−−−この二つの心のレベルについて解説している
      お経である、

  こう表現すると、学術的にも正確無比な表現になります。

 ですから、般若心経は、第九住心「極無自性心」 について先ず「第一段階」として解き明かし、
 次に、「第二段階」として 第十住心「秘密荘厳心」 についても解き明かしている
  −−−そういう経典なのです。

★ 以下に挙げる 『入門バージョン和訳』は、『第九住心 無自性レベルの心』についての「顔」 です。


★≪叡智のヨーガは単純な引き算≫−−と覚えて下さい。
  表面的に膨張している・バブリーな「主体」の観念を 正しい分析によって、一つ一つ切り捨てて、「真の主体」に迫って行く技法−−そうしたものを一つ一つ、『これでもない、これでもない』、と引き算で選り分け、切り捨てて行きます。そうすると、
最後に残るのは何ですか? 
 それが太極の、本地の秘密主、宇宙の
真の主体・真の主宰者。
  「活動の本体、独立無依存の主宰者」
です。
 
  万物の根源神を信じる者にとって、その答えは既に見えているものですが、
 <自覚的に根源神に
「意識を近づけて行く」技法>−−−それが叡智のヨーガです。

★ヒンドゥーのジュニァーナ・ヨーガ(叡智のヨーガ)について、仏陀(釈尊)が「活動の本体性(主宰者性)」と、その反対の意味である「無常性・虚仮性」という視点で、より深く掘り下げ、瞑想技法として大成した−−−それが仏法(仏教)である、と〜〜〜理解するのが正解です。
   のちに、大乗仏教徒はヒンドゥーのジュニァーナ・ヨーガと区別して、
    仏陀が大成した 「無常観を深く掘り下げた叡智のヨーガ」 のことを
      「般若ヨーガ」と呼んだ、と理解しましょう。
  それ故、大乗仏教における
  
「〜に自性がない」「〜は無自性である」 という言葉は、
     
<〜には(常恒不滅)無依存独立の活動主宰者性が無い> 
        ↓↓   という言葉に代替しても、ほぼ同じ意味になります。

        ⇒初心者はこの下の「入門和訳」を読誦してみましょう!       

★また、「自性がない」 について、
     『それ固有の主体性がない』   とか 
     『それ自体には真の主体性がない』
   という言葉を代入したバージョンも提示しております。(こちらをクリック)

★ ただし、何といっても−−−『無自性の三無力』について全部しっかり表現したもの(空−7−159)  が内容的には  <最も正確な言い換え> −−−と言えます。

       
★ 聖徳太子は 『世間虚仮・唯仏是真』 と申しました。
  般若心経は 『諸法空相』 と教え、その反対に、
  法華経は 『諸法実相』 と教えます。
   これらの言葉を無理なく整合性を保ちながら完璧に理解できる−−−それが上記の日本語和訳です。読めば読むほど、その深さが分かって来るでしょう。禅の思想の中にも、相対界の万物を「(本仏の)衣」と理解するヴィジョンがあります。


Special Thanks
反アカデミズムを貫く反骨の哲学者 永井俊哉氏
第四回メディア大賞受賞 

 

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このページの最終更新日 2007/1/21

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